映画と人とわたし

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 監督「BIUTIFUL ビューティフル」1851本目

スペイン語圏がいかに広いか、いかに優れた映画監督がいるか、最近実感しています。私の目につくところにもっともっと現れてきてくれたらいいな。

冒頭からハビエル・バルデムが怖い。でも怖いのは顔だけで(w)、この映画は監督もあちこちで語っているように、スペイン版「生きる」なのです。ハビエル(ウスバル)は怒ってるんじゃなくて苦悩しているのです。余命宣告を受けたらどうする?を表現するのに、1952年の日本でリアルに思えるのが初老のサラリーマンなら、2010年のバルセロナでは麻薬の密売人の中年男なんだ。世界中どんな人にとっても重い、苦しい、宣告です。

個人的な考えだけど、黒澤明の映画のタイトルが「死ぬ」じゃなくて「生きる」なのは、「死ぬ」だとなんか暗いからとかではなくて、余命が定まったところであと少しの時間をどう「生きるか」が大事だから。
この映画でもウスバルは、何を子どもたちに残せるかを考えて、必死に生きます。何もかもうまく行くような映画を作る監督ではありません。何を読み取るかは観客に任されています。任されても、この映画はなかなか複雑で(いつもだけど)、やっぱり2回は見ないと・・・。冒頭とエンディングは繋がって(重なって)いるし。死者と話ができることも、一度では理解できなかった。そうか、彼はお父さんとも話ができたのかな。

スペインに中国からの不法移民がこんなにいるのか。多分リアルなものを描きたい監督だから、いるんだろうな。そういうのを斡旋する人たちも、麻薬の密売をする人たちも、たくさんいるんだろう。
それにしてもウスバルは、あとわずかの時間の中で愛し合ってる元妻と、病気のせいで「できない」ことが残念だった。何もしなくても話し合って分かり合えるほど器用な男じゃないから。

だけど「奇跡の映画」以外の世界では、死は静かに確実に必ず来る。残される人たちのことを真剣に考えても考えなくても来る。自分が愛されていたかどうか、元妻にも子どもたちにも、本当のことは必ず伝わってる。だから大丈夫なんだ、お金や立派な何かを残せなくても。
「自分が育てているつもり?天地万物が子どもたちを育くむのよ」
シャーマン的な女性(この人の存在感すごいですね)の、この言葉が達観していて好きです。
彼女に「何もかも家族に話せ」と言われても、結局何も話せず、生にしがみついて、もがいたままだったけど、彼女からもらった不思議な「石」は渡せたみたいだしね。
成仏しろよ・・・(だから映画だってば)