映画と人とわたし

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」1839本目

イタリア・フランスの映画だけど言語は英語。ドイツ人がイタリアのベニスを訪ねているという設定なので、英語になるってことかな。

1971年、思ったほど昔の作品ではなくて、美少年を演じたビヨルン・アンドレセンは現在まだ65歳らしい。
というか原作者のトーマス・マンだって1955年まで存命だった現代作家なんですね。どうも古典というイメージがあるのは、この映画のあまりの完成度や知名度のためでしょうか。

などと勿体つけてないで本題に入ります。
この映画、子どもの頃にテレビで見た気がする。ストーリーを何も知らずに見て、タジオの完璧な美しさから目を離せなくなったのを覚えてるけど、、記憶の中のアッシェンバッハはヤラシイおじさんでした。愛に溺れる前はチャーミングな中年男性なんだけどね・・・。当時ダーク・ボガード54歳、かな。一方のビヨルン16歳。
最初は清潔で美しい映画だわ・・・と思って見ているんだけど、アッシェンバッハがどんどんヤラシイおじさん度を増していきます。荒い息づかい、汗ばんだ額、輝いて濁った瞳。

あまり言葉でストーリーを語ろうとしない映画なので(ちょっと言葉足らずな感じがするくらい)、ただ時系列のままに進行していきます。
昔は伝染病が町中を席巻しても、部屋にテレビはないしスマホSNSもなかったので、観光客に隠すこともできたんだろうな。特にこういう、あまり他の旅行者とお話ししない旅行者は。
一度はベニスを出発しかかったアッシェンバッハ。ソワソワしながら戻ってくるとき、比喩にしてはわかりやすい、駅で倒れた病人を見る。心臓がかなり悪くても、彼は出発すれば生き延びられたのかもしれない。ではタジオとその家族はその後どうなったのか。

最初から心臓を病んでいた彼は、死の影にたっぷり浸っていたのに、コレラは必要だったんだろうか。(と大昔に見たときも思った)今テレビの「100分de名著」でカミュの「ペスト」を取り上げてて、疫病という比喩について詳細に分析してるんだけど、この映画でも疫病は大きな死の影としておじさん側に近い存在です。そこに踏み込んでくる、一点のキズもない美と若さ。少年はなぜか何度も立ち止まり、後ろの死の世界を振り返りながら立ち去っていく。これによって表現したいことって何だったんだろう。

髪と髭を真っ黒に染めると顔色の悪さや肌ツヤのなさが際立つ。
死化粧じゃないんだから・・・。
おじさんの気持ちがウキウキしてくる感じは、共感する部分もあります。
でもこの映画が「傑作」なのかというと、斜めから見れば「駄作」に見えなくもない。ギャグだと思って笑いながら見ることもできる。
コレラって超激しい下痢をして脱水症状で痩せ細るんじゃなかったっけ?決して美しく死ねる病気ではなかったと思う。そんなことも含めて、結構この映画はがんばり過ぎて違う方向に行ってしまった映画のような気もします。

まぁそれにしてもタジオ君は本当に美しい。完璧ってこういうことなんだろうか。究極ってこういうことなんだろうか。完璧じゃない美も美のうちなんだろうか。どの程度の美を美と呼んでいいんだろうか・・・自分の中の美醜の価値観が試されている気がします。