映画と人とわたし

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

デイヴィッド・リーン 監督「ドクトル・ジバゴ」1779本目

厚いコート、毛皮の帽子、全体的に黒が強い画面。言われなくてもロシアが舞台だとわかります。
アンナ・カレーニナみたいな感じ。でもロシア人が出てない。みんな英語を喋ってる。ということから、革命ばんざい、ではない映画だと予想できます。
それにしても主役のロシア人を演じてるのがオマー・シャリフというエジプト人だというのは、割と強烈な事実です。クイーンという名のブリティッシュ・ロック・バンドのボーカルがフレディ・マーキュリーというのと同じくらいのインパクト。(英国のこういう、意外とこだわらないところが好き)

デイヴィッド・リーンはアラビアに行ったりロシアに行ったりインドに行ったりと、大航海時代の世界征服者のように映画を作っていきました。今のハリウッドの「アフリカ系の役はアフリカ系、アジア人の役はアジア人が演じるべき」という風潮に照らすと、今なら共産革命をロシア人を使わずに映画化することはないのかもしれません。(※そもそもハリウッドで映画化する時点でオリジナルと全く別物だから、問題はそこじゃなーい。猫が主人公のキャッツを人間が演じるのはNGとでも言うのかよー)それより私としては、これが偉大なロシア映画をたくさん作ってきたモスフィルムの作品じゃないことが残念。

で内容については、冷静に考えると、ラーラは言い寄ってきた男に次々に惚れる女で、ユーリは優しい妻を放り出して不倫にふける男で、何も共感のしようがない映画です。原作がロシア人なら、オリジナルにはもっと(カラマーゾフの兄弟とかアンナ・カレーニナのように)燃え上がる情念の炎とか、ほとばしる自我の嵐とか、共感できないまでも「す、すごいなぁこの人たちの業の深さは」と思わせる凄みがあったんじゃないかと想像しますが、デイヴィッド・リーンが映画化した時点で、自己中な男の愛の人生を描いた一代記として、当時のアカデミー賞受けする感動をもたらす映画に転化してしまっていたのかもしれません。

詩人という設定の彼の詩はちっとも出てこないし。ロシア文学なら、これでもか、これでもか、と独白が続くはずだし・・・(すごい偏見)・・・