マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」1742本目

池袋でレイトショーを見てきた。
すごく評価が高いしアカデミー賞候補というので、期待して食い入るように見た。
そうしたら、なんか、ずいぶん荒っぽい映画だった。
悪いやつキャラ(警察の怠け者たちや、犯人と疑われるやつ)もいいやつキャラ(主人公つまり被害者の母)も常識的に考えるとブチ切れやすくて乱暴すぎて、なんというか、ドカドカ破壊したり攻撃したり火をつけたりする様子は、まるで西部劇。外国人が行かない南部の州の誰も通らない道路沿いには、こんな世界が広がってるんだろうか。

普段ならこのあと、もっと深い心理劇が見たかったとか、最後はもっと泣かせるか笑わせるか考え込ませてほしい(クリント・イーストウッドの映画みたいに。でないとアメリカで賞を取るのは難しいだろうし)とか書くのが私なんだけど。でも今たまたま中上健次の小説を読んでいて、荒くれ者の世界の純粋さ(いうなれば、心に偽りのない、衝動のままに生きて滅びるものこそ神の子である、という感覚)に心を動かされてる真っ最中なので、”キレイゴト”の一切ない「スリー・ビルボード」の人々の正直さが少しは気になるのです。これは、LGBTも全人種も全宗教もみんな一緒よ、というオバマ的世界に反発してトランプに投票してしまう人たちの心理が気になる、というのと同じ気がします。私は、極道映画より純文学クラシックのほうが”高尚”だなんて本気で思っちゃいないか?(ごめん、思ってる。)小男が主人公に、「あんたはディナーの席でもずっとしかめ面で人を恨んでばかりな上、庇ってやってハシゴも支えて正装でディナーをご馳走している俺より自分が上だと思っている」と言い放つのが、痛快なんだけど、見てる私たち自身に突きつけられてもいるのです。

殴られたり火傷だらけでボロボロでも笑って生きていくしぶとさは、私には全くないです。
主人公を全く立派じゃない人、ほぼ加害者のように描いたところが、アナ雪でプリンスチャーミングが<以下ネタバレ、ってここで言ってもしょうがないけど>振られるのと同じくらい、アメリカでは新しいものとして受けているのかもしれません。もはやここは絶対的な善悪の境界が存在しない世界で、あるのは「私」対「それ以外全部」という対立。彼女や彼に祝福がもたらされるのが、署長からの手紙だというのが、なんともやりきれないというか腑に落ちない感じもします。彼らにはこんな当たり前のアドバイスをしてやる人も、今までいなかったのか。手紙に書かれていることは、決して独特なことではないのに。

このもやっと感。さあ賞取りではどういう結果になって来るんでしょうね〜?