溝口健二 監督「近松物語」1212本目

1954年の作品だけど、当時の映画の技術のすべてにおいて卓越しています。この先いつ見ても、どの時代の映画と比べても遜色ないだろうなぁ。溝口監督の作品は、ほんとうに完成度が高いです。

人間の心の奥の純粋で汚れない部分と、それを取り巻く弱さを、ていねいにていねいに描いていきます。
昔の映画はもっと勧善懲悪がはっきりしていると思ってたけど、進藤英太郎演じる主人にも、年老いた弱さが見えるし、きれいなだけのような、おさん=香川京子と茂兵衛=長谷川一夫も、心の隙や兄弟への義理という弱みがある。

見ていると、心がざわざわする。
人のいい二人が悪い運命に足を掴まれて翻弄されるのが、たとえば「ゆれる」みたいな現代的なドラマと通じるところもある。嫌な予感がすべて当たって、悪い偶然に偶然が重なり、その社会での通念上許容しがたいところに落ちていく。違うのは、昔といっても特に白黒の時代、1950年代くらいまでの作品には、人間の中に美しい部分があると、作る側が信じていること。今の時代は、そこをもう信じられなくなっている。

「ゆれる」みたいな映画だけじゃない。美談として語られる、泣ける映画でも、人の純粋さがデフォルトじゃなくて、言い訳ばっかりなんだ。たとえば好きになってはいけない人どうしが恋に落ちるときに、そうならなければならない事情を語る必要がある。作るほうだけじゃなくて、見ている人も言い訳がないと安心しなくなってる。逆にこの映画のように、「ずっとお慕いしていました」と言われて、おさんも自分の気持ちに気づく。愛し合っていたことに「気づいてしまった」だけで、思い合うことには何の理由も事情もない。愛するってなんなんだろう?と考え込んでしまったり、好きになったのは如何ともしがたい事情があったんだ、と言い訳してしまうところが不幸なんだなぁと気付かされました。